御祭神・由緒

御祭神と由緒について

御祭神  菅原道真公
御例祭  10月9日

当天満宮の御鎮座地長岡は、菅原道真公が御生前に在原業平らと共に、 しばしば遊んで詩歌管弦を楽しまれた縁深いところであります。公が太宰府へ左遷された時、この地にお立ち寄りになり「我が魂長くこの地にとどまるべし」と名残を惜しまれた縁故によって、公御自作の木像をお祀りしたのが当神社の創立であります。創立年月は不明でございますが、応仁の乱で兵火に罹り社殿が消失し、明応7年(1498)に再建したとの記録がございます。
爾来皇室の崇敬篤く度々の御寄進御造営をうけ、寛永15年(1638)には八条宮智仁親王によって「八条が池」が築造されました。中堤両側に樹齢百数十年のきりしまつつじが多数植えられており、その見事さは我が国随一と言われ、花の季節には多くの観光客で賑わいます。

 社地は元10万余坪に亘って居りましたが、明治維新の変革に際し上地のため、現今は2万余坪を有しております。
現在の御社殿(御本殿、祝詞舎、透塀)は昭和16年に京都の平安神宮の御社殿を拝領移築したものであります。正面朱塗りの拝殿は既存の拝殿を増改築し、平成10年秋竣工いたしました。平成23年に御本殿が京都府の有形文化財にまた、平成24年に祝詞舎(弊殿)、透塀、手水舎(旧幣殿)等が長岡京市の有形文化財にそれぞれ指定されました。

菅原道真公と牛について

菅公は仁明天皇の御宇、承和12(845)乙丑6月25日すなわち丑年のご生誕であり、貞観元年己卯 月2月乙丑、ご元服の当夜、白牛が角をくじいて死ぬ悪夢を見られ、たいそう気にされて自ら牛を画き、 お酒を供えてご尊拝せられたということです。

寛平5年、癸丑の9月、公は北山に茸狩りの宴を催されましたが、いずこからともなく小牛が宴席近く寄 り、頭を垂れていかにも公を敬うがごとくでありましたので、公はたいそうお喜びになって御館に連れて 帰り、お可愛がりになりました。

又、菅公が太宰府にご左遷の御時、道明寺から、こもやの里まで落ちゆかれる途中、時平の命を受けた笠 原宿禰等が後を追って切りかかり、お命危うく見えたとき、松原の中から荒れ狂った白牛が飛び出て、宿 禰の腹を突き刺しました。よくご覧になると公が都でご愛育になった牛でありました。公は「都にて流罪 極る前夜、不思議に 逃げ去って姿を隠し、度々に凶非を告げ、今また此の危難を助けし忠義の牛、筑紫ま で伴わん」と涙を流 してお喜びになりました。これにより牛にお乗りになって、御心安らかに旅立たれた のであります。そしてこの太宰府の地においてひたすらに謹慎の意を表されておりましたが、延喜3年( 903)2月25日の丑の日に薨去されました。 由来、全国の天満宮には牛の像が数多く奉納されているのであります。

社紋である「梅」の由来

菅原道真公はその邸宅が紅梅殿・白梅殿と呼ばれたように、梅をこよなく愛していました。

”美しや 紅の色なる 梅の花
あこが顔にも つけたくぞある”

道真公が、5歳の頃庭に咲く紅梅を見てその花びらで自分の頬を飾りたいと詠われて以来道真公と梅の 縁は深く、残された詩文の中にも梅花を詠ったものが多くみられます。 しかし道真公の梅好きは個人的な趣味という以上に、菅原氏の祖業にも深く関わっていたように思われます。梅は中国から奈良時代に伝来した外来種であり、中国文化教養を象徴する花だったからです。天平年間、大伴旅人らが太宰府で梅花の宴を催し、梅を詠んだのは、当代における先端的な唐風の振る舞いでした。 又、道真公には「飛梅伝説」というのがありますが、これは道真公が太宰府へ西下の時、京の邸宅の紅梅殿の梅に

”東風吹かば にほひおこせよ 梅の花
あるじなしとて 春な忘れそ”

と歌を詠まれると、後にその梅が 配所太宰府の菅公のもとに飛んできました。これが「飛梅伝説」です。

全国の主な天満宮の社紋

 

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